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生活を、健康を取戻し、本来の自分を取り戻すために。
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入院生活が始まったのですが、この入院生活の中でやはり一番迷惑をかけたのは妻でしょう。
長女もまだ幼かったですし、二人目の子供も間近ですから。しかしそんな大変さにも決して愚痴を言わずに
いてくれた妻がいます。
今までの生活の中であまりに溶け込んでしまった観があるのですが、やはりたいしたものだとこの時にあらためて知ったものです。

長女もほんとによく耐えてくれたものです。
今考えると娘の気丈さもこの時に育まれてしまったのかもしれません。本来はもっと楽しく母親に甘えるころですから、しかし、けっしてそんなことはおくびにも見せずに気丈さを持つ娘がいました。そしてそれこそが
自分の宝物と自負しています。

そして、この時に妻のおなかにいた子もそんな姉の事を妻を通して見ていたに違いありません。
家族の絆、このようにして我家の基本ができてきたこと。それは妻が教えてくれた一番の教訓と思っています。

話は戻って、病院での生活はほんとに退屈この上ないものでした。
前回にも述べたように仕事の心配をすることも禁じられた状態ですからほんとに外界と遮断されたような感じでした。

そんな中で着実に快方に向かっている自分を感じ取ることができたのも事実です。

今この時期にはほんとに妻の偉大さ、娘の尊さを思い知った時期です。

時も春に向かって進んでいる最中。もうすぐ3月も終わり四月が近づいてくるのですから。
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入院してからの毎日は外部との連絡が取れず仕事のほうも気がかりな日が続き、心配な毎日でしたが、一日一日と経過するにつれあきらめの気持ちが出てきたものです。
先生をはじめ看護婦さんたち(当時)が意図的にしているとは考えてもいませんでした。
しかし、振り返ってみるとこの時間が大切なことが今切実に感じ取ることができます。

元はといえば仕事の疲れ、その疲れをいつまでも引いていたのでは治療どころでないのは明白な事柄です。

今、もし、このような事が目の前に事態としてある場合にはくれぐれもご用心したほうが得策です。

このときに会社は自分ひとりで動いているのではないという事を教えてもらいました。

また企業とは本来そういうものでないといけないと思ってきました。

そしてまた反対に自分が身体を壊してまでしてきた事はいったい何?と疑問を抱き始めたのもこの頃です。

考えてみるとこの頃から、ほんとに自分の事を考え始めた気がします。
自分にとって大事なものは何? 仕事をこなし、充実した毎日を過ごすこと。いいえ、違うかも。

そのためにずいぶん大きな犠牲を払ってきたことに気がつかなかったのです。

やはり心身とも健康な事が一番大事だということ。今自身を持って言えます。

しかし、この気持ちはきっと自分にしかそして自分と同じ境遇を味わった人しかわからないかもしれませんが大事なことと思います。

自分を冷静に客観的に観察する事、それには自分ではなぜこんなことまでして自分のしてほしいことを居是打つするのだろう、そのことが先生方、看護婦さんたちが身をもって教えてくれました。

きっと患者から嫌われても仕方が無い、そのうちに理解してくれるだろうと言う暖かい考えがそこにあったと思います。

病院に運ばれて治療が始まりました。
救急で運ばれてすぐに検査した時の結果、腸が切れているそこから出血がひどくなっている。えっ、腸が!
そんな感じで検査の結果を聞いたものです。それから止血が始まりました。
激痛の中ではっきり記憶していませんが先生方のおかげでしだいに止血していく状態が確認できたものです。

治療室から病室に運ばれて休養するのが一番必要と思った瞬間です。
病院では近親者以外は病院へ入ることができないきまりです。
家族は早く良くなってくれればと、切実に祈っていたと思います。
病院は当時、交通の便に恵まれていず、毎日の看護も大変だったと思います。

家内は身重の状態で毎日電車、タクシーで来る日が続きました。
そんな中でやはり自動車の必要性を痛感していたと思います。
少しずつですが自動車に慣れてくる家内がいました。そして家内と一緒に見舞いに来てくれる愛娘に会えるのが唯一の楽しみだったのです。
健康に早くなりたい。と切実に願ったものです。

腸が傷ついたために食事は一切できない日が続きました。
点滴だけですごす毎日、けっこうつらかったですね。
でもこれを乗り切るのが大切と思っていました。

入院してからの毎日は外と隔離されたような状態でした。いままで手帳にたくさん書かれていた予定、あれは
いったいどうするの。そんな感じですが外部と電話することさえ禁止されていました。
そのぐらい看護の方、家族は必死だったと思います。

もう、このへんで少しゆっくりするのもいいかも、年齢の割には早くもそういった考えが過ぎりました。

その甲斐あって病状は確実に快方に向かっていたのです。

続く....。


先の病院での治療に入る事になってからのことですが体調を崩したことがありました。
体調を崩した時期については、いささかあいまいな点があります。
正直言って多少、時間がずれているかもしれません。

もしかして、その時から既に自分自身疲れていたせいかも知れません。

たしか、病院に診察しに行った時期は記憶では、年末近かったと思います。
仕事のほうもそこそこ切り上げ毎日が過ぎていきました。
一年も無事に終わり、新たな年を迎えるそんな状態でした。

年が明けて間もないころ、突然体調を崩したのです。

1月中旬、就寝中、夜中1時ごろ、突然の腹痛に襲われました。激痛でした。
妻に激痛を訴え、救急車を頼んだのです。
それからはしばらく、覚えていません。救急車に運ばれ、病院までの間の時間がすごく長かったことだけが記憶に鮮明に残っています。その病院とは自宅から通常、自動車で10分もあれば行きそうな場所にあったのです。

病院に着いてからの自分は痛みを取り除いてもらうことが第一の願いでした。
しかし、その後、当直の担当医師は女医でしたが処置の甲斐なく痛みはいっそうに収まる気配がありませんでした。
時間だけが過ぎていく。激痛は走ったままでした。下血があり、出血も治まる気配がなく、担当医師は出血をとめることに専念していたようです。
しかし、止血剤も効かず、出血はますますひどくなる状態だったようです。
担当医師は相当焦っていたようです。

実家から駆けつけたすぐ上の兄が様子を見て、声高々に「このままでは死んでしまう!」と訴えたのです。
担当医師も処置することができず、緊急で他の病院へ転送が決まりました。
この時の判断で今の自分がこうしていられると思っています。

そしてつぎに運ばれたのが救急医療センターです。この病院のおかげで自分を取り戻しました。

ほとんど意識は無かった状態です。

運ばれてからそこでは緊急で検査が始まったのは記憶しています。
まだ、年齢的には30歳超えたくらいの先生でしょうか、この先生方に思ったことがあります。
自分の周囲にいてくれる医師がこんなにかけがえの無い人たちだったのかと先の先生といい今回の先生方といい、恵まれていた環境に感謝。

次は救急医療センターで治療した毎日をつづってみます。・・・・・・・・・つづく。

病院での出来事以来、自分の体に細心の注意を払うようになったと思っています。
治療に当たっての一番の注意は
・一日一日の出来事に関して特別なことをしないで平常心を保つこと。
・治療にかかる薬の副作用を事前に知っておくこと。
・同じく治療薬の効果を妨げないようにすること。特に自分が服用する薬はアルコールは絶対禁止でした。

以上のことを自分に言い聞かせて毎日に取り組むように心がけていました。
一番目の注意に関しては
毎日を定められたとおりに過ごすこと。それが自分のペースを取り戻すために一番好ましいとのことでした。

2番目は
薬の副作用を事前に知ることによりその薬の効果を逆に知ることになるかも知れないと思ったのです。

3番目はこれが絶対のことです。
酒類の飲用を禁止しました。治療薬との相性を確認したうえでの先生の適切な指示だったと記憶しています。
そして、常に自分はよくなるんだといった事をいつも心の奥に確認しておくことが肝要だと感じています。
人間は自然治癒があることはご存知と思いますがこれまでこれがこんなに大切なこととは思っていませんでした。
家族の暖かい見守りがあってこそ以上のことができることも付け加えておかなければなりません。

後ほどここに決めた約束事に対しての自分の成果を少しずつエピソードを加え述べていきたいと思います。



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